秋のお彼岸に寄せて

 先日、葬儀のことを調べている最、ある文章の中に死には2種類の見方があるというようなことが書かれてありました。ひとつは死を「点」でみること。もうひとつは死を「線」で見ることだそうです。

 死を「点」で見るとはどういうことかというと、例えば医師が死亡診断を下したり、行政が志望届を受理することを言います。この場合の死は、「死んだ」と判断された時点で終わりです。そのあとのことはなく、そのことで死が完結します。

 一方死を「線」で見るとはどういうことかというと、葬儀や仏事を通して死を受け入れていくことです。納棺や通夜、葬儀、火葬、収骨、納骨などの一連の動きを通して、親しい方の死を受け入れいれていくことです。

 このふたつの死で、決定的に何が異なっているかというと、点の死は「死んだらそれで終わりである」ということであり、線の死は「死んで終わりではない」と残されたものが受け止めていくことです。

 われわれは、家族がなくなったのちも法事やお盆、墓参りなど故人を偲ぶ行事を折にふれて行っています。「死んだらそれで終わり」という考えだとそういった故人を偲ぶ行事は必要ありません。しかしそうできないのは、我々の心のどこかに「死んで終わりではない」という心があるからでしょう。

 浄土真宗のみ教えは、阿弥陀如来のはたらきをうけて、私がいのち終わった後、仏として極楽浄土へと生まれていくという教えです。まさに、「死んで終わり」ではなく「死んでも仏としてのいのちをいただいて歩んでいく」ということなのです。

 今年も秋のお彼岸がやってきました。先立たれた方々を、あの西の空に思いを寄せるとき、「死んで終わりではないいのち」に気づかせていただけるのです。そのことは先立たれた懐かしい方々が私たちに気づかせてくれるのです。いのち終わってもなお、私たちに働き続けていて下さる懐かしい方々に心を寄せてまいりましょう。

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